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レオナルド・ダ・ヴィンチ 『ウィトルーウィウスによる人体比例図』 [ルネサンス美術]

レオナルド・ダ・ヴィンチ 『ウィトルーウィウスによる人体比例図』 1490年頃 ヴァネツィア、アカデミーア美術館蔵

 

『ウィトルーウィウスの建築書』、第三書、第一章

神殿の構成は相称にもとづいている。この理法を建築家は、一生懸命、会得する必要がある。この方法は比例から得られる。・・・・比例は、建物の諸部分、また全体に関して、各々の場合、一定の尺度に従うことにあり、この比例によって相称の原理的方法は実践に移される。なぜならば、調和や比例なしに、いかなる神殿も均整のとれた平面を持ちえない。すなわち、神殿には、調和のとれた人体の各部分に倣って成し遂げられた、正確な比例がなくてはならない…同様に、神殿の各部分は、神殿全体の大きさに適切に合っているそれぞれの部分の寸法を持つべきである・・・・もし人が手と足を伸ばして仰向けに寝かされて、円の中心がその人の膳にあるのなら、手と足は円周に接するだろう。同じように正方形も、形成される・・・・足の裏から頭のてっぺんまでの身長は、伸ばした両手の幅に等しいからである。(東海大学出版会 『ウィトルーウィウスの建築書』より引用)


 

 


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横たわるヴィーナスの系譜 [ルネサンス美術]

横たわるヴィーナスの系譜

15世紀末から16世紀初頭にかけてのヴェネッィア絵画に数多く登場する。

 

GIORGIONE, Sleeping Venus, c.1510, Gemäldegalerie, Dresden

 

TIZIANO, The Venus of Urbino, 1538, Galleria degli Uffizi, Florence

 

Lorenzo LOTTO, Venus and Cupid, 1540, Metropolitan Museum of Art, New York


TIZIANO, Venus with Organist and Cupid, c.1555, Museo del Prado, Madrid

 

その他の図版の入手方法
http://www.wga.hu にアクセス/ENTER HIREをクリック/上部メニューのSEARCHをクリック/TITLE欄に「venus」と入力/Seach!をクリック


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ヴィーナスとマルス [ルネサンス美術]

BOTTICELLI, Venus and Mars, c.1483, National Gallery, London

PIERO DI COSIMO, Venus, Mars, and Cupid, 1490, Staatliche Museen, Berlin

ウェヌス(ヴィーナス)とマルスの主題

(a) 美と武勇の寓意、あるいは愛による闘争の克服の寓意。

(b) 神話画。ホメロスの『オデュッセイア』(8:266-365)とオウィディウスの『転身物語』(4:171-189)を典拠とする。

河出書房新社 『西洋美術解読事典』 参照。

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ヴェロネーゼ 美徳と悪徳の間の若者 参考図版 [ルネサンス美術]

ヴェロネーゼ 美徳と悪徳のあいだの若者 1580-1582年頃(1560-70年代に位置付ける説もある) プラド美術館

 

ヴェロネーゼ 美徳と悪徳のあいだの詩人 1578-1580年頃 ニューヨーク、フリック・コレクション

 

デューラー 別れ道のヘラクラス 1498 ニューヨーク、メトロポリタン美術館

 

カラッチ 別れ道のヘラクレス(ヘラクレスの選択) 1596年頃

 

美徳と悪徳という抽象的な概念を擬人化し、悪徳の擬人像が誘う享楽の道を退け、美徳の擬人像に従って禁欲的で困難な道を選ぶ、というテーマはヘラクレスの物語に由来する。一般に「別れ道のヘラクレス」、あるいは「ヘラクレスの選択」として知られるこの主題は、古代ギリシアのソフィスト、プロディコスが創作したものである。若者の前に二人の女性が現れ、ひとりは扇情的に着飾り、主人公に世俗的な楽しみを全て与えようとする。これは<悪徳>、あるいは<淫欲>の寓意である。しかし、若者は迷った末、衣服で厳格に身を包んだ女性、すなわち<美徳>の指し示す困難な道を歩み始める。それはたいてい岩だらけの細い道として描かれるが、その先には名声を象徴するモティーフが描かれるか、あるいは神々の恩寵が予期されているのである。この寓話は、クセノフォンが著した『ソクラテスの思い出』において語られ、ルネサンスおよびバロック絵画の主題として好まれた。元来、異教起源の挿話であるが、聖バシリウスによって美徳と悪徳との間における魂の葛藤、プシュコマキア(霊魂の戦い)と結びつけられ、キリスト教道徳の視覚化と見なされた。


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慶應あるびよんくらぶ土曜教養講座講演会のお知らせ [講演・公開講座のご案内]

慶應Albion Club(英国文化研究会)土曜教養講座

日時: 2006年6月17日(土) 14:00-16:00 (終了後、30-40分ほど茶話会を行います。)

講師: 小倉康之

演題: 「西洋中世建築のシンボリズム-ケンブリッジとエルサレムの聖墳墓教会について-」

会場: 慶應義塾大学三田構内、第一校舎122教室

参加費: 1,000円(茶話会代込、非会員の方のご参加も歓迎いたします。) 

http://www.keioalbion.net/

 

 

ケンブリッジの聖墳墓教会 12世紀


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盛期ロマネスク建築-ドイツ、ライン地方の聖堂と装飾- 参考資料 [朝日カルチャーセンター]

■『ベンノー伝』の記述
これまで言及してきたように、ベンノー司教の建築的技能は、非常に熟練度の高いものであった。だとすれば、明白な根拠があるわけではないが、概して留守にしがちであったベンノー司教が、遠隔地にありながら我々の修道院聖堂を建築したとも考え得るのである。彼は決して修道院建設をあきらめず、建築監理を他の者に移管することによって、遠隔地にいることも苦にしなかったように、熱心に建築に取り組んだのである。
ベンノーは王の命令によってシュパイヤーの街に呼び寄せられ、あの最も崇高なものへと高められてはいたが、建築の巨大さ故に不用意にライン川の岸辺へと伸張していた教会を、最高度の才能と入念な整備、優れた建築的新手法によって完成した。また、河川の氾濫によって建物を転覆されないように、巨大な堤防(石造構築物)を建設したのである。
筆者による試訳。 原文は以下の通り。 Erat igitur architectoriae artis, ut iam supra meminimus, valde peritus. Quod si quis in his nostris aedificiis tantopere non apparere notaverit, sciat haec per eius absentiam maxima ex parte fuisse constructa, in quibus tanti extitit studii, ut ne expulsus quidem et longinquis regionibus morans per alios, quibus hoc iniunxerat, ab aedificando cessaverit. Unde regis imperio in Spirensem urbem adductus ecclesiam illam amplissime sublimatam et prae magnitudine operis minus caute in Rheni fluminis littus extentam maximo ingenio difficilique paratu egregii operis novitate perfecit, et immensas saxorum moles, ne fluminis illisione subverteretur, obstruxit.
■『オットー伝』の記述
しかし、皇帝はその著名にして困難なシュパイヤー大聖堂の建設工事を抱えていた。そして彼はあらゆる賢明にして巧みな建築家、建築工匠、石工、そしてその他の職人を国内から集めた。それどころか、彼は国外からもそうした技術者たちを呼び寄せたのである。そして、皇帝は毎年多量の金、銀、貨幣を消費し、その出費は莫大なものであった
その頃、偉大なる皇帝ハインリヒは、彼が帝王らしい寛大さをもって特別な敬意を寄せていた永遠の乙女マリアの栄光のために、壮大で感嘆すべきシュパイヤー大聖堂の建設を進めていた。ところが、工匠たちは神をも恐れず多量の資金を着服し、欺いて予算を使い果たしてしまった。そのため、しばしばその偉大なる建築は予算不足と相成った。それゆえ、このことに心を痛めていた皇帝は、彼の親密なる助言者であるオットーの忠言に従って、この建設事業の全指揮権を彼に委ねた。そして、オットーこそは、すでに何度も確かめられた高い学識を有する者であり、より大規模でより困難となっていた大聖堂建設の任務を遂行するのに適任者であったのである。オットーは慎重で賢明なやり方で、委ねられた任務にあたった。彼にとって、使徒の戒律に従って世界の支配者である皇帝のために尽くすことは、神に仕えるようなものとして理解されていたのである。彼はしばしば宮廷に出仕しつつ、大聖堂建設の任にあたっては、正しく資金を運用した。さらに彼は、その溢れんばかりの英知の証として、大聖堂の窓の調和に関し、熟慮の末の賢明なる処理法を皇帝に検討課題として提案した。こうしてオットーは、皇帝に対してばかりでなく、友としての諸侯に対しても変わらぬ誠実な親愛の情を示したので、彼らはオットーの知恵を神に感謝せずにはいられなかった。
■『ハインリッヒ4世伝』の記述
嗚呼、マインツの街よ、汝の大聖堂を廃墟から蘇らせるはずの、かの工匠ハインリッヒを失ってから後、汝はその誉れをも失ってしまった。自らの手で建設を始めたマインツ大聖堂を完成に導くことができるまで、彼が生きていてくれたならば、汝の大聖堂はかの名高きシュパイヤー大聖堂と肩を並べることができたであろうに。彼が礎石から驚嘆すべき建築と彫刻作品に至るまでを完成に導いたシュパイヤーの大聖堂は、古代の諸王のいかなる建設事業よりも素晴らしく、賞賛に値するものである。まだ自分の眼で見ることができないでいるものは、彼が大聖堂に献じた金や銀、その他の貴石、あるいは絹でできた宝飾品の数々を、にわかには信ずることができないであろう。

参考文献: ジョン オナイアンズ著 『建築オーダーの意味 ―古代・中世・ルネサンスの古典オーダー』 日高健一郎他訳, 中央公論美術出版, 2004年

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トマスの懐疑 参考図版 [キリスト教図像学]

ストメル、マティアス 聖トマスの懐疑 1630-1640年 プラド美術館

1600年頃、ユトレヒト近郊生まれ。1652年頃、シチリアまたは北イタリアで没。ユトレヒトのカラヴァッジェスキ、リベーラ等の影響を受ける。

 

カラヴァッジオ トマスの懐疑 1601-02年 ポツダム、サンスーシ蔵


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「トマスの懐疑」の図像-分類- [キリスト教図像学]

西方タイプ・・・左右非相称の構図が多い

東方タイプ・・・左右相称の構図が多い

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タイプA・・・キリストの傷を見て、トマスが信仰告白をしている場面を描く。閉じた扉はキリストの神性を表し、聖書の「戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち」という部分を視覚化したもの。復活したキリストが現実の肉体を伴って現れるため、キリストの神性を表すために鍵をかけた扉が描かれる。

ラヴェンナ サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂 5世紀末 (493-496) /519年

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タイプB・・・キリストは左手を上げ(またはオランスのポーズ)、トマスは自分の意志で指を差し入れている。4世紀にはキリストが右手を挙げている作品もあったが、アウグスティヌスによって脇腹の傷が「善」の側である右脇腹(むかって左)であるべきだと論じられて以来、「右脇腹」の傷、キリストが右手を挙げるポーズが主となる。

ミラノの石棺 浮き彫り 4世紀第二四半世紀

北イタリア制作の象牙版 420-430年

コデックス・エグベルティ 

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タイプC・・・キリストは右手でトマスの腕をつかみ、その指を傷口に入れさせている。初期にはシリア・パレスティナに作例が見られ、その後はコプト13番を除いてはほとんど用いられなかった。ビザンティンでは左右相称の構図をとりながら、タイプBの図像へと移行。その逆に、中世後期のライン河流域において、タイプCの作例が散見されるようになる。

モンツァの聖地記念香油瓶 6世紀初頭 モンツァ 書物=学識を表すアトリビュート

ストラスブール 聖トマス教会 テュンパヌムの彫刻 1230年

 


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「トマスの懐疑」の図像-典拠- [キリスト教図像学]

ヨハネによる福音書第20章24-31

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」


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