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論文のダウンロード:「シュパイヤー大聖堂の小型ギャラリー―象徴的意味と宗教上の機能について―」 [ロマネスク美術]

シュパイヤー大聖堂の小型ギャラリー 
―象徴的意味と宗教上の機能について―
以下のページからダウンロードできるようになりました。
アイテムタイプ 紀要論文 / Departmental Bulletin Paper
言語 日本語
キーワード シュパイヤー大聖堂, 小型ギャラリー, 小人ギャラリー, ロマネスク建築
英訳タイトル The Dwarf Gallery of Speyer Cathedral ―A Study on Its Symbolic Meaning and Religious Function―
著者 小倉 康之
内容記述  
ロマネスク建築を特徴づける建築要素の一つは「小型ギャラリー」である。中でもシュパイヤー大聖堂の小型ギャラリーは、最も美しく完成度の高いものとして名高い。本稿では、その象徴的意味と宗教上の機能についての考察を行う。これまではイタリアのロンバルディア地方が小型ギャラリーと盛期ロマネスク建築の起源であると言われてきた。しかし、トリーア大聖堂とシュパイヤー大聖堂では、ロンバルディア地方よりも半世紀以上も早くこの建築要素が用いられた。また、小型ギャラリーは単なる装飾的要素であると捉えられてきたが、皇帝崇拝や聖遺物の顕示の儀式と結びつき、宗教上・政治上の機能、および象徴的意味を有していたと考えられる。
雑誌名 玉川大学芸術学部研究紀要
号 11
ページ 1 - 15
発行年 2020-03-31
ISSN 1881-6517
書誌レコードID AA12407929
著者版フラグ publisher


ケンブリッジの聖墳墓教会(補足) [ロマネスク美術]

修復後の外観

1130年頃「聖墳墓信心会」によって建設された。この信心会(confraternity)に建設用の土地を与えたのが、ラムジーのレイナルド修道院長であり、それは1114年から1130年の間であったとされている。最初は信心会によって運営されていた慈善施設に付属し、巡礼者・旅行者用の礼拝堂として造られたものと推察される。その後、すぐに小教区礼拝堂になり、15世紀にはゴシック様式に基づいて大幅な増改築が行われた。1840年代になると、サルヴィンによる修復が施され、ロマネスク様式(となり、現在に至る。正面扉口、クリアストーリー(高窓列)、ドームなどが復原された部分である。

修復後の内部空間構成 断面図

平面図(修復後)


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シュパイヤー大聖堂 西構え [ロマネスク美術]

シュパイヤー大聖堂の西側ファサード(被災前)

ケルン ヴァルラフ=リヒャルツ美術館(2657) 1606年のデッサン


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『ハインリッヒ二世の典礼書』 [ロマネスク美術]

《キリストの墓を訪れる聖女たち》 『ハインリッヒ二世の典礼書』 ミュンヘン国立図書館蔵 1002-1014年

クラウトハイマーは、中世建築の造形原理を考える際、「キリストの墓を訪れる聖女たち」の場面に表された建築モチーフを子細に検討した。この場面には、しばしば聖墳墓教会のアナスタシス・ロトンダが表されている。例えば、『ハインリッヒ二世の典礼書』の場合、最下層では「キリストの墓」の下部が描かれ、その上の層には四つの窓を取り囲む円柱列、すなわち「環状ギャラリー」が配されている。その上の四つの窓は「クリアストーリー」であり、ここまでがアナスタシス・ロトンダの内観である。その上では、突如として内観から外観へと替わり、環状ギャラリーの外観と九つの窓によって表されるクリアストーリーの外観が積み重ねられている。さらにその上には「ドーム」が描かれ、ここまでがロトンダの外観である。だが、ドームの上では再び内観となり、「キリストの墓」の上部が描かれている。

 


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ケンブリッジの聖墳墓教会 [ロマネスク美術]

ケンブリッジの聖墳墓教会

12世紀初頭のロマネスク建築。エルサレムの聖墳墓教会アナスタシス・ロトンダを模して建設された。八本の太い円柱が中央部のドームを支える円形堂である。内部立面は多層構成となっており、環状周歩廊の上に窓のない階上ギャラリーが配されている。フランスの作例、ヌーヴィー=サン=セピュルクルの教区教会堂(聖墳墓教会)と比較すると、聖墳墓記念聖堂の基本構成が理解できる。リチャード・クラウトハイマーの1942年の論文を理解するには、この建築の図版は必須。

以下のサイトから写真をダウンロードすることができます。

http://www.crsbi.ac.uk/ed/ca/cahsc/

http://www.druidic.org/camchurch/churches/camsepulch.htm

http://www.christianheritageuk.org.uk/group/group.aspx?id=2399

http://www.antiqueprints.com/proddetail.php?prod=e8199


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スペイン中世建築史のキーワード [ロマネスク美術]

スペイン建築の不変元 (フェルナンド・チュエッカ著『スペイン建築の特質』に基づく)

分節空間(分割された空間)・・・円柱スクリーン。イコノスタシス。折れ曲がった導線による非対称に絡み合った構成。矩形の枠組みの中で空間は分節され、互いに関連づけられながらも、衝立状のスクリーンや円柱列、高低差によって峻別される。

ヴォリューム表現・・・直方体になろうとする傾向。純粋で無重力の幾何学、稜線の明確な幾何学、深い浮き彫りを持たない表面の平滑性が物質性を失わせ、量感を与えず、軽快にさせる。丸みのついた躯体を回避し、直方体・多面体に還元される。もっとも単純ではっきりした形態が常に支配する。直方体、角錐、球、円筒。壁面では正方形、長方形、円、楕円。純粋形態のヴォリューム。洗練された簡素さ。

結晶化・・・単純な要素に幾何学化されたヴォリュームの外観表現を生む。単純な立体が相互に貫入し、多様かつ複雑な(ピクチャレスクな)建築外観が生まれる。結晶化構成。直方体と多面体。抽象形態。

平面性(平面主義)・矩形性・・・カタルーニャ・ゴシックにおいて顕著。剥き出しの巨大な平面の高貴さを好む。矩形化への傾向。

水平性・・・北方のゴシックの「垂直性」と好対照を成す。スペインの水平ゴシック。水平・矩形ゴシック。

装飾性・・・部分(扉口)に集中された装飾のモスリコ手法


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クリュニー第三聖堂 [ロマネスク美術]

クリュニー修道院第三聖堂 

フランス, ブルゴーニュ地方

1088年-1130年頃

全長177m超。二重側廊の五廊式バシリカ。大小二つのトランセプトを持つ。東側に四基の塔が聳え、ラインラント・ロマネスクの多塔形式に倣ったものと言われている。側廊には交差ヴォールト、身廊には横断アーチ付きの尖頭トンネル・ヴォールトを架構。高さは30m。

身廊の天井は1125年に一部が崩壊したため、フライング・バットレスで補強した上で破損部を再建。ナルテクスは聖堂の完成後に増築され、1225年になってようやく完成した。1811年にほとんど取り壊され、現在に至る。

以下は破壊される前に描かれたデッサン、銅版画など。こうした画像資料と発掘によって得られた実測値によってさまざまな復元が試みられている。

 

クリュニー第三聖堂 南側外観 

 

 クリュニー第三聖堂 南側外観と平面図(G:身廊、E:ナルテクス)

 

 

クリュニー第三聖堂 西側外観(双塔式ファサード)

 

クリュニー第三聖堂 ナルテクス内観 

ナルテクスが極めて広く、東西に長いのが特徴。画面奥の入口を抜け、ナルテスクから身廊へと至る。

 

クリュニー第三聖堂 身廊内観

 

参考文献:

Conant, K. J.: Cluny : les églises et la maison du chef d’ordre, Mâcon, 1968.


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リポイのサンタ・マリア修道院 西正面扉口大彫刻 [ロマネスク美術]

リポイのサンタ・マリア修道院 西正面扉口大彫刻 19世紀のデッサン

Arxiu Històric Comarcal de Ripoll所蔵の写真より複製(原画の所蔵先は不明)

リポイのサンタ・マリア修道院 西正面扉口大彫刻 現況

西正面に取り付けられた巨大な彫刻は上下七層より成り、黙示録のヴィジョンと旧約聖書の図像が統合された複雑な構成となっている 。上段の第一層にはパントクラトール、すなわち黙示録の神、および天使、二十四人の長老、第二層には二十二人の祝福された使徒と聖人が表されている。また、第一層と第二層にまたがって、四福音書記者のシンボルが配されている。第三層と第四層には、向かって左に上限二段にわたって 「列王記」におけるダヴィデ王とソロモン王の物語、右側の二段には「出エジプト記」の諸場面が配されている 。第五層は左にダヴィデと四人の音楽家、右に律法の授与(イスラエルの民と神)がテーマとなっている。第六層にはダニエルのヴィジョンが表され、向かって左はダニエル書第八章の「雄羊と雄山羊の幻」、右はダニエル書第七章の「四頭の獣の幻」である。最下段の七層目には、左にグリフィン(キリストの神性と人性の象徴)と獅子、右に地獄に堕ちた人々が表され、細く帯状に連なる植物装飾の中に組み込まれている。扉口大彫刻中央部のヴッシュールは、七重の半円アーチによって構成され、動植物装飾による27のメダイヨン(頂点は神の子羊)、ペテロ伝サイクルおよびパウロ伝サイクル、ヨナ書・ダニエル書の諸場面などが彫刻されている。これらのアーチを支える柱の部分には黄道十二宮、聖ペテロとパウロの全身像が見出される。アーチの内側には再び全能の神、神のために香をたく天使、カインとアベルの物語、月歴が配されていれており、訪問者はこうしたヴッシュールの彫刻を見ながら、聖堂内部へと至る唯一の入口を通過することとなる。


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リポイ、サンタ・マリア修道院聖堂 西側ファサード [ロマネスク美術]

 

以下、研究ノート(Ogura, 2003, pp.19-20)より引用。

1. 聖堂史の概略


スペイン、カタルーニャ地方にあるリポイのサンタ・マリア修道院は、バルセローナ伯爵家の始祖、ギフレ(在位878-897)によって879年に創設された。その当初からローマやトレドとも交流が深く、多くの書物を集め、学問の中心として中世のカタルーニャ全般に多大な影響を及ぼした。11世紀には修道院長オリバが活発な文化活動を展開し、挿絵入りの聖書写本(ファルファ聖書写本、リポイ聖書写本)を今に伝えた他、聖堂正面扉口のロマネスク大彫刻において黙示録のヴィジョンが旧約のテーマと綜合されて示された。


東西の全長が70メートルにも及ぶ、この修道院聖堂は、9世紀以来、幾たびかの破壊と再建、増改築と修復を経て現在に至っている。特に、1835年の大火災後には、大々的な修復が試みられた。それゆえ保存状態は決して良好とは言えないが、トランセプトの壁体や塔、回廊などは現存している。リポイ修道院聖堂はカタルーニャのロマネスク建築の中核を成す建築であった。にもかかわらず、ロマネスクの建築史において明確な定位を与えられているとは言い難い。その理由は、研究者の関心が彫刻群に集中し、各部がいつの時代に属するのか、建設当初の状態とどのように異なっているのかが明らかではないためであろう。そこで筆者は、今後、壁体調査と実測によってこの修道院聖堂のクロノロジーを再検討していく所存である。その端緒として、本稿ではまず先学の研究成果に基づいて美術史学的な観点から各部を記述し、今後の研究課題とすべき問題点を抽出したい。E.ジュニェンが著した総合的なモノグラフィ、『サンタ・マリア・デ・リポイ修道院 』(1975年)によれば、聖堂史の概略は以下の通りである。


最初の聖堂建築は、888年に献堂された。935年には改修もしくは改築されたと考えられており、977年にも大規模な改修(ないし改築)が行われた。現在の身廊部は977年のプランに由来すると考えられており、この第三次聖堂は木組みの天井を架した五廊式のバシリカであったとされる。しかし、ヴォールト天井を架した5祭壇5祭室の建築であったとする説もあり、各時代のプランをそれぞれ明らかにするために、詳細な壁体調査、ならびに実測調査に基づく復元的研究を行う必要がある。さらに、1032年にも改築が行われ、「神の平和と休戦」を推進したオリバ修道院長(1008年から1046まで リポイ修道院長を務める。キュクサ修道院長およびビックの司教を兼任した。)によって、ヴォールト架構の広大なトランセプトが付け加えられた。また、ナルテクス部分も拡張され、双塔式の西側ファサードに変更されている。11世紀の大規模な改築は、聖堂の様相を一新させたに違いなく、筆者はこれを第四次聖堂として区別しておく。


その第四次聖堂は、ジュニェンが「ロンバルディア起源」と位置付けた建築装飾によって視覚的に特徴付けられ、典型的なロンバルディア様式の建築だとされている。一方、かつてプッチ・イ・カダファルクも指摘したように(1908-18) 、第四次聖堂は4世紀の作例、ローマの旧サン・ピエトロのバシリカと「トランセプトを有する点」、「各部の比例関係」において共通性が看取される。その点では、初期キリスト教時代の建築からの直接的な影響も顕著である。オリバが数次に亘ってローマ教皇との折衝を重ね、ビックに司教座を設置するなど、ローマとの繋がりが深いという事実を考え併せれば、旧サン・ピエトロのバシリカを模倣した建築がカタルーニャの地に建設されたとしても不思議ではない。したがって、ローマを中心とした初期キリスト教時代以来の建築伝統が、リポイ修道院聖堂に大きな影響を与えた可能性は、今後子細に検討していくべき課題であると言えるだろう。従来のように、ロンバルディア・ロマネスクからカタルーニャへの直線的な伝播経路のみを考えるのではなく、初期キリスト教時代の建築からの直接的影響、カロリング朝以来の建築伝統、カタルーニャ・ロマネスク独自の様式展開などを視野に入れ、複合的に考察していく必要があると思われる 。


1070年以降、リポイ修道院は、同じカタルーニャのサン・ペラ・ダ・ローダがそうであったように、およそ100年の間マルセイユのサン・ヴィクトール大修道院の管轄下に置かれる。リポイ修道院聖堂の身廊がヴォールト架構となり、二層構成の回廊や西正面扉口彫刻などの要素が新たに加わったのは、マルセイユからの影響があったと考えることもできる。回廊部分の増築は12世紀の第4四半世紀に始まり、装飾性豊かな柱頭彫刻を有する二層のギャラリーの建設が進められた。その後、回廊の建設工事は長期にわたって中断され、盛期ゴシック期の1380年にようやく再開されて上部ギャラリーが付け加えられた。下部の第一層が完成したのは1401年、上部の第二層が完成したのはそれから一世紀も後のことである。1428年の地震でヴォールトが崩落したため、天井部分の修復工事が必要となったが、新たに建設されたのはリヴ・ヴォールトであった。その後近代の1830年に大規模な修復工事が行われ、身廊部は縮小を余儀なくされ、三廊式のバシリカへと改められたとされている。しかし、この直後、1835年8月9日の火災によって修道院聖堂は大きな被害を受け、廃墟と化した。1886年には早くも再建のための修復工事が行われ、1893年に献堂式が行われた。この時採用された浅いトンネル・ヴォールトは、歴史的裏付けを欠く不適切なものであった。ただ、この修復で回廊のロマネスク柱頭彫刻や正面扉口大彫刻が復興、保全されたのは意義深いことであった。


現状では、修道院聖堂自体は保存状態が良いとは言えず、カタルーニャにおけるロマネスク彫刻の代表的作例として知られる正面扉口大彫刻、あるいは回廊の柱頭彫刻が重視されている。しかし、被災前のリポイの修道院聖堂が、カタルーニャの中世建築全般に如何なる影響を及ぼしたのかを考えることは、カタルーニャ・ロマネスク建築の特質を明らかにするために、特に重要な研究テーマの一つであると思われる。したがって、創建時から第四次聖堂へと至るリポイ修道院聖堂の復元的研究、実測に基づく度量衡学研究 を進めていくことは、カタルーニャの中世建築史において欠落した最重要作例の一つを埋めていく、欠くべからざる作業であろう。


 


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