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リポイ、サンタ・マリア修道院聖堂 西側ファサード [ロマネスク美術]

 

以下、研究ノート(Ogura, 2003, pp.19-20)より引用。

1. 聖堂史の概略


スペイン、カタルーニャ地方にあるリポイのサンタ・マリア修道院は、バルセローナ伯爵家の始祖、ギフレ(在位878-897)によって879年に創設された。その当初からローマやトレドとも交流が深く、多くの書物を集め、学問の中心として中世のカタルーニャ全般に多大な影響を及ぼした。11世紀には修道院長オリバが活発な文化活動を展開し、挿絵入りの聖書写本(ファルファ聖書写本、リポイ聖書写本)を今に伝えた他、聖堂正面扉口のロマネスク大彫刻において黙示録のヴィジョンが旧約のテーマと綜合されて示された。


東西の全長が70メートルにも及ぶ、この修道院聖堂は、9世紀以来、幾たびかの破壊と再建、増改築と修復を経て現在に至っている。特に、1835年の大火災後には、大々的な修復が試みられた。それゆえ保存状態は決して良好とは言えないが、トランセプトの壁体や塔、回廊などは現存している。リポイ修道院聖堂はカタルーニャのロマネスク建築の中核を成す建築であった。にもかかわらず、ロマネスクの建築史において明確な定位を与えられているとは言い難い。その理由は、研究者の関心が彫刻群に集中し、各部がいつの時代に属するのか、建設当初の状態とどのように異なっているのかが明らかではないためであろう。そこで筆者は、今後、壁体調査と実測によってこの修道院聖堂のクロノロジーを再検討していく所存である。その端緒として、本稿ではまず先学の研究成果に基づいて美術史学的な観点から各部を記述し、今後の研究課題とすべき問題点を抽出したい。E.ジュニェンが著した総合的なモノグラフィ、『サンタ・マリア・デ・リポイ修道院 』(1975年)によれば、聖堂史の概略は以下の通りである。


最初の聖堂建築は、888年に献堂された。935年には改修もしくは改築されたと考えられており、977年にも大規模な改修(ないし改築)が行われた。現在の身廊部は977年のプランに由来すると考えられており、この第三次聖堂は木組みの天井を架した五廊式のバシリカであったとされる。しかし、ヴォールト天井を架した5祭壇5祭室の建築であったとする説もあり、各時代のプランをそれぞれ明らかにするために、詳細な壁体調査、ならびに実測調査に基づく復元的研究を行う必要がある。さらに、1032年にも改築が行われ、「神の平和と休戦」を推進したオリバ修道院長(1008年から1046まで リポイ修道院長を務める。キュクサ修道院長およびビックの司教を兼任した。)によって、ヴォールト架構の広大なトランセプトが付け加えられた。また、ナルテクス部分も拡張され、双塔式の西側ファサードに変更されている。11世紀の大規模な改築は、聖堂の様相を一新させたに違いなく、筆者はこれを第四次聖堂として区別しておく。


その第四次聖堂は、ジュニェンが「ロンバルディア起源」と位置付けた建築装飾によって視覚的に特徴付けられ、典型的なロンバルディア様式の建築だとされている。一方、かつてプッチ・イ・カダファルクも指摘したように(1908-18) 、第四次聖堂は4世紀の作例、ローマの旧サン・ピエトロのバシリカと「トランセプトを有する点」、「各部の比例関係」において共通性が看取される。その点では、初期キリスト教時代の建築からの直接的な影響も顕著である。オリバが数次に亘ってローマ教皇との折衝を重ね、ビックに司教座を設置するなど、ローマとの繋がりが深いという事実を考え併せれば、旧サン・ピエトロのバシリカを模倣した建築がカタルーニャの地に建設されたとしても不思議ではない。したがって、ローマを中心とした初期キリスト教時代以来の建築伝統が、リポイ修道院聖堂に大きな影響を与えた可能性は、今後子細に検討していくべき課題であると言えるだろう。従来のように、ロンバルディア・ロマネスクからカタルーニャへの直線的な伝播経路のみを考えるのではなく、初期キリスト教時代の建築からの直接的影響、カロリング朝以来の建築伝統、カタルーニャ・ロマネスク独自の様式展開などを視野に入れ、複合的に考察していく必要があると思われる 。


1070年以降、リポイ修道院は、同じカタルーニャのサン・ペラ・ダ・ローダがそうであったように、およそ100年の間マルセイユのサン・ヴィクトール大修道院の管轄下に置かれる。リポイ修道院聖堂の身廊がヴォールト架構となり、二層構成の回廊や西正面扉口彫刻などの要素が新たに加わったのは、マルセイユからの影響があったと考えることもできる。回廊部分の増築は12世紀の第4四半世紀に始まり、装飾性豊かな柱頭彫刻を有する二層のギャラリーの建設が進められた。その後、回廊の建設工事は長期にわたって中断され、盛期ゴシック期の1380年にようやく再開されて上部ギャラリーが付け加えられた。下部の第一層が完成したのは1401年、上部の第二層が完成したのはそれから一世紀も後のことである。1428年の地震でヴォールトが崩落したため、天井部分の修復工事が必要となったが、新たに建設されたのはリヴ・ヴォールトであった。その後近代の1830年に大規模な修復工事が行われ、身廊部は縮小を余儀なくされ、三廊式のバシリカへと改められたとされている。しかし、この直後、1835年8月9日の火災によって修道院聖堂は大きな被害を受け、廃墟と化した。1886年には早くも再建のための修復工事が行われ、1893年に献堂式が行われた。この時採用された浅いトンネル・ヴォールトは、歴史的裏付けを欠く不適切なものであった。ただ、この修復で回廊のロマネスク柱頭彫刻や正面扉口大彫刻が復興、保全されたのは意義深いことであった。


現状では、修道院聖堂自体は保存状態が良いとは言えず、カタルーニャにおけるロマネスク彫刻の代表的作例として知られる正面扉口大彫刻、あるいは回廊の柱頭彫刻が重視されている。しかし、被災前のリポイの修道院聖堂が、カタルーニャの中世建築全般に如何なる影響を及ぼしたのかを考えることは、カタルーニャ・ロマネスク建築の特質を明らかにするために、特に重要な研究テーマの一つであると思われる。したがって、創建時から第四次聖堂へと至るリポイ修道院聖堂の復元的研究、実測に基づく度量衡学研究 を進めていくことは、カタルーニャの中世建築史において欠落した最重要作例の一つを埋めていく、欠くべからざる作業であろう。


 


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