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聖パウロに律法を授与するキリスト [古代・初期キリスト教美術]

遅くなりましたが、ご要望を頂きました「聖パウロに律法を授与するキリスト」の図像をアップロードします。ローマでは、キリストを中心にペテロを右、パウロを左に配することが多く、キリストは「聖ペテロ」に律法を授与しています。しかし、ラヴェンナではこれと異なるタイプの図像が散見されます。

 

ラヴェンナ 正教徒洗礼堂(大聖堂)「律法の授与」 ストゥッコ装飾 450年頃 
*ペテロとパウロの位置関係が逆 左:ペテロ 右:パウロ

ラヴェンナ・タイプの「律法の授与」 5世紀初頭の石棺
ラヴェンナ、S. Maria in Porto fuori
*ペテロではなくパウロに律法を授与している図像

ラヴェンナ・タイプの「律法の授与」 5世紀初頭の石棺
ラヴェンナ、聖フランチェスコ教会
*ペテロではなくパウロに律法を授与している図像

 


ラヴェンナ, サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂 -3- [古代・初期キリスト教美術]

■身廊南側側壁のモザイク壁画 (アプシス14→入口26)


14 最後の晩餐


15 ゲッセマネの祈り(オリーブ山でのキリスト)


16 キリストの捕縛とユダの接吻


17 大祭司のもとへキリストの連行


18 大祭司の前のキリスト(大祭司による尋問)


19 ペテロの否認の予告


20 ペテロの否認(と悔恨)


21 ユダの悔悟


22 ピラトの前のキリスト(裁かれるキリスト)


23 十字架を担うキリスト


24 キリストの墓を訪れる聖女たち


25 エマオへの旅


26 トマスの懐疑(弟子たちへの出現)


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ラヴェンナ, サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂 -2- [古代・初期キリスト教美術]

■身廊北側側壁のモザイク壁画 (入口01→アプシス13)


01 ベテスダの池(ベデスタにおける中風病みの治癒)


02 悪霊につかれた人の治癒(ゲラサ人の地における)


03 中風病みの治癒(カペナウムにおける足萎えの治癒)


04 羊と山羊を分かつキリスト(マタイ25:31-34)


05 やもめの献金の譬え(マルコ12:38-44)


06 パリサイ人と取税人の譬え(ルカ18:9-14)


07 ラザロの蘇生


08 サマリアの女


09 長血の女の治癒(イエスの服に触れる女)


10 盲人の治癒


11 弟子の召命(奇跡の漁りでは復活後のキリストとして描かれ、キリストも小舟に同乗していることが多い)


12 パンと魚の奇跡


13 カナの婚礼(カナの奇跡)(大幅な修復が施されている。画面右側の人物は修復家による)


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ラヴェンナ, サンタポリナーレ・ヌオーヴォ聖堂 -1- [古代・初期キリスト教美術]

■ラヴェンナ, サンタポリナーレ・ヌオーヴォSant'Apollinare Nuovo聖堂 (テオドリクス王の宮殿付属アリウス派聖堂) 519年頃(493年から526年の間)


創建当初は救世主キリストに捧げられていたが、ビザンティン帝国に東ゴートが滅ぼされた後、聖マルティヌス聖堂となった。9世紀、初代ラヴェンナ司教聖アポリナリスの聖遺物がもたらされて再献堂され、サンタポリナーレ・ヌオーヴォ(新しい聖アポリナリスの聖堂)と改称された。ヌオーヴォ(新しい)とつけるのは、ラヴェンナ近郊、クラッセにあるサンタポリナーレ・イン・クラッセSant'Apollinare in Classe聖堂などと区別するためである。


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エルサレムの聖墳墓記念聖堂 [古代・初期キリスト教美術]

328-36年 第一次聖墳墓記念聖堂の建設
1009年   ファーティマ朝のカリフ、ハーキムによる破壊
1047年   ビザンティン皇帝によるアナスタシス円堂の再建
12世紀頃 十字軍による内陣の増築
1808年   火災によって内陣以外はほとんど失われる
1948年   中東戦争において被弾
1949年   再建工事中に再び炎上

7世紀の巡礼者が描いたエルサレムの聖墳墓教会
アイルランドの修道院長 Abt Adamnan vo Hy (ca.624-709)

エルサレムの聖墳墓記念聖堂(11世紀の再建後) 平面図

エルサレムの聖墳墓記念聖堂(11世紀の再建後) 断面図

エルサレムの聖墳墓記念聖堂(11世紀の再建後) 断面図

エルサレムの聖墳墓記念聖堂(11世紀の再建後) アナスタシス円堂の内観

エルサレムの聖墳墓記念聖堂(11世紀の再建後) 内陣部分の内観


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ヴァチカン、サン・ピエトロ旧聖堂 [古代・初期キリスト教美術]

64-68年頃    聖ペテロの殉教。墓の上にガイウスのトロフェーオが作られる
319-322年の間  旧サン・ピエトロ大聖堂 建設開始
324-329年の間  旧サン・ピエトロ大聖堂 ほぼ完成
15世紀          深刻な損傷を被る(?)
1506-1608年    新聖堂の建設に伴い旧聖堂は取り壊される。(身廊の東側部分は残される。ペテロのメモリアの上には保護建築物が建設された。)

コナントによる復原鳥瞰図

ジョヴァナントニオ・ドシオの素描 (1560年頃) 画面奥は建設途中の新聖堂のドーム鼓胴部。

西側ファサード復原図 (製図:小倉康之)

 

復原平面図 (製図:小倉康之、アルファラーノの図面に基づく)

アルファラーノによる平面図

旧サン・ピエトロ大聖堂の建築を特徴付ける最も重要な造形的要素は「貫通型トランセプト」である。

貫通型トランセプトの内壁は、ふつう壁画サイクルによって(時計回り、あるいは反時計回りの動線が設定されていた。一般信者や巡礼者は、この直方体の空間内に配置された「メモリア、石棺、墓所、祭壇」を自由にみてまわることができた。

貫通型トランセプトは、時間によって「霊廟空間」と「典礼空間」とに使い分けられていた。ロマネスクの建築家が旧サン・ピエトロ大聖堂を手本として建築する際には、このような二重の宗教上の機能を前提として、平面構成を考えた。


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エルサレムの聖墳墓教会 [古代・初期キリスト教美術]

エルサレム、聖墳墓教会のアナスタシス・ロトンダ

11世紀初頭に破壊される以前のエルサレムの聖墳墓記念聖堂 巡礼者によって描かれた平面図

キリスト教世界における最も重要な霊廟建築がエルサレムの聖墳墓教会、アナスタシス・ロトンダであったことに関して異論を差し挟む余地はないであろう。初期キリスト教時代から中世を通じて、キリストの墳墓であるアナスタシス・ロトンダは複製され続け、多くの遺構が現存している。エルサレムの聖墳墓教会は、コンスタンティヌス大帝により4世紀に建設された聖地のマルティリウム群の中核をなす建物である。これは岩に掘られたキリストの墓、コンスタンティヌスの母后ヘレナによる真の十字架発見の場所、ゴルゴダの丘にある磔刑の場所の三カ所を同時に記念する建築であった。これらに対応して、聖墳墓を覆うアナスタシスと呼ばれる円形堂、聖十字架断片崇拝の儀式が行われた中庭、地下に十字架発見の場所のあるバシリカの3つの部分から構成されていたと考えられている。3番目のマルティリウムと呼ばれるバシリカにはギャラリーがあった、とカイサリアのエウセビオスが記録している。これと同様、4世紀に建設されたアナスタシス・ロトンダにも階上ギャラリーがあったと考えられている。また、アナスタシス・ロトンダの内部にはキリストの墓を覆う円柱に支えられた天蓋があり、聖墳墓は二重の構築物によって覆われていた。内部の小規模な構築物はトゥグリウムtugriumと呼ばれている。聖墳墓教会の復元に関しては1914年のヴァンサンとアベルによる復元図が一般的であり、コナントもこれを踏襲している。他方、クラウトハイマーはこれらと異なる復元案を提示しているが、いずれにせよ、アナスタシス・ロトンダの象徴的建築モチーフがギャラリーであったという点では変わりがない。

 

聖墳墓教会の特質

1. 円形・八角形プラン 
2. 垂直の中心軸が空間構成を支配(集中式) 
3. ドーム 
4. 環状ギャラリー 
5. 多層構成(三層または四層) 
6. 数の象徴的意味(8:復活、12:十二使徒) 
7. イェルサレムのオリジナルに基づく寸法 
8. 墳墓・祭壇

 

アナスタシス・ロトンダの複製建築

フランス, ヌーヴィー・サン・セピュルクル, 聖墳墓教会, 11世紀

イギリス, ケンブリッジ, 聖墳墓教会, 12世紀初頭(あるいは1130年頃)

ドイツ, フルダ, ザンクト・ミヒャエル教会, 820-822年(地上部分は11世紀に改築)

ドイツ, パーダーボルンのブスドルフ教会(マインベルク司教の聖墳墓教会), 11世紀前半


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【年表】 古代スペイン史 [古代・初期キリスト教美術]

旧石器時代にネアンデルタール人は他の土地への移住を余儀なくされる。替わって欧州北部、アフリカ、東地中海から移住民が流入。アルタミラの洞窟(サンタンデル)壁画などがその痕跡。

紀元前1000年頃、リグリア族(北部)、イベリア族(南部)などに分かれて複数の民族を形成。

紀元前7世紀頃 ケルト族の侵入。広い地域に分散、混血し、ケルト=イベリア人となる。

紀元前約8世紀 フェニキア人の植民活動。アンダルシアに定着。ガディル(現カディス)などの植民地を作る。タルテソス(聖書におけるタルシシュ)に高度な文化が伝播。

紀元前約7世紀 ギリシア人の植民。南部の地中海沿岸に植民市を建設。カタルーニャのエンポリオンが主要な居住地。最初の貨幣を鋳造。オリーブと葡萄などが伝播。グレコ・イベリア彫刻として「エルチェの貴婦人像(紀元前5-4世紀、プラド美術館蔵、アルバセテ近郊で発見)がある。内陸部は原住民の住む荒れた乾燥地帯と中央高地がひろがっていた。

紀元前5世紀 カルタゴのフェニキア人植民市がイベリア半島において勢力を拡大。カルタゴ・ノバ(現カルタヘナ)などの建設。既にイベリア半島に侵入してきていたローマと対立。

紀元前3世紀 カルタゴとローマの第二ポエニ戦役。カルタゴの指導者ハミルカル・バルカスはイベリア半島を軍事基地として利用。その息子ハンニバルは地中海沿岸地帯を占領、ローマへ進軍。ローマ軍の指揮者スキピオ一族はイスパニアに第二戦線を展開。P.コルネリウス・スキピオがカルタゴ軍を破り、前209年にカルタヘナ、206年にカディスを征服。

紀元前2世紀 ローマによるヒスパニアの属州化。ルシタニア人(ポルトガル)、ケルトイベリア人(カスティーリャ)、カタルーニャの抵抗。

紀元前2世紀-5世紀初頭 700年間にわたるローマの支配。


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